はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
なかなか眠りが訪れてこない夜などに、たくさんの日々の記憶が実際よりも鮮やかに蘇ってくることがあります。
真夏の昼に、左右から生い茂った夏草の間の、山沿いの乾ききったベージュ色の土の道を歩いていた記憶。
ほうけきったふきのとうと高く伸びたつくしが枯草の間から緑を見せ始めている土手の道。
陽が頂点を越えて、少しずつ夕方に近づいていき、人影のまばらになった夏の海。
夜の直前の濃い藍色の空から、大柄な雪が連綿と降りしきる中を家に帰りながら見る長靴の先。
会社の食堂の上の窓から見える満開の桜。
夜の大雪山を走っていた時に、道の両側に無数に見えた光る鹿の目。
どれもその時の感情は曖昧になって、光景だけが強く記憶に残っています。
そんな中でも、特に鮮やかに残っているのが、彼女に告白された日の記憶です。
大学時代のハードなラブアフェアの結果
大学時代に、付き合っていた彼女に二股をかけられて振られるというハードな経験をしました。
それでしばらく異性関連はいいかなと思っていたのですが、そういう気持ちの時に限って、女性からのアプローチが多くなってしまいます。
別に色恋沙汰というのではなく、恋愛にニュートラルな態度でいると、女性から見て話しやすいらしいのです。
そんなこんなでいろいろとお手伝いを頼まれたり、恋愛相談なども受けたりしていました(もちろん、相談の対象は私ではありません)。
下心はほぼない状態でしたので、それなりに信頼度は高かったようです。
そんな中の一人で、女性には珍しく8ミリ映画を撮影するのが趣味という人からも何回か相談されることがありました。
私も中学生のころから8ミリ映画を作っており、大学でも作っていました。
普段その趣味について深いお話の出来る相手がほとんどいなかったので、相談された内容についてだけでなく、ずいぶんといろいろお話を弾ませてしまいました。
相手もそのような話をする相手が欲しかったらしく、その後も何度か誘われて、恋愛相談(相手は私ではない)なども受けるようになりました。
残念ながらその恋愛は実を結ぶことはなかったようですが、その後もいろいろお話をしたり、8ミリ映画についての話をしたりしていました。
なんとなく、そんな気はしていた
そんな日々の中、その人たちの所属しているサークルで映画に出てほしいという話があり、出演したところ、思いのほか好評で、たいそう感謝されてしまいました。
そのお礼ということで、8ミリ好きの彼女とその映画の監督をした女性の二人にお食事会に誘われたのですが、待ち合わせの喫茶店に行ったら8ミリ好きの女性一人しか来ていませんでした。
「あれ、○○さんはまだ?」
「彼女は用事が出来て来られないそうです」
自分たちで呼んでおいて用事があるって何さ、とは思いながら、とりあえず席に着き、ナポリタンか何かをごちそうしてもらい、食事をしながら完成した映画のことなどお話ししていました。
食事も終わり、いつの間にか人生についてのお話などに話題が移り、彼女が最近悩んでいることについての相談になりました。
「何かに向かって、まっすぐ行きたいといつも思っているんですけど、どうしてもいろいろ悩んでしまって、まっすぐに行くことができないんです」
これはまた抽象的な人生論だなあと思いつつ、答えました。
「それは、とりあえず考えるのをやめて、まっすぐに行ってみて、どうなるかを見てみるほうがいいでしょう」
そう言うと、彼女は私のほうをまっすぐに見てきました。
そのとたん、私は瞬時にいろいろなことがキッチリとはまる感覚を味わいました。
あ、そういうこと? もう一人の女性が来ないのは気を使ったのか、もしくは最初から仕組まれていたのか。まんまと罠にはまった感じ? ああ、これは、そういうことか。
「じゃあまっすぐ行ってみることにします。私とお付き合いしていただけませんか?」
「ふむ」
罠にはまったのは確かだが、リスクは特にない。断ることもできるが、断らなければならない理由もない。彼女は必死で、けっこう追い詰められている。付き合うことによるデメリットはあまり考えられない。
「はい。では試験的に付き合ってみましょう」
彼女の顔がぱぁっと明るくなりました。
郵便ポストが赤いのも 空のカラスが黒いのも
人の顔が輝くことって本当にあるんですね。
その様子を見ていたら、こちらも何か落ち着かなくなってきました。
こういうものは伝染性があるのでしょうか。
古くて艶のあるテーブルの向こうにいる彼女と、外が明るく晴れているせいで、少し暗く見える喫茶店の室内の解像度が上がったようで、鮮やかに見えてきます。
外は4月末の気持ちの良い青空が広がっています。
身内からよくわからないものが湧き上がってくる感じで、外に出て歩きたい気がします。
「じゃあ、飲み物を飲み終わったらちょっと歩いてみましょうか」
「はい」
どうも調子が狂うなと思いながら、コーヒーを飲みます。
嫌な気分ではないのですが、妙に落ち着きません。
これが浮かれるということなのかと納得したりしました。
喫茶店を出て、見慣れた街の中に出ても、いつもより彩度がかなり上がっていて、シャープに見えています。
「まずは言葉遣いを改めましょう。敬語では距離感が遠すぎる」
「はい… うん?」
「そんな感じ。じゃあ、行こう。手を」
おそるおそる出した彼女の手を握り、私は鮮やかで明るい世界に向かって歩き出しました。
あの日の濃くて青い空を、私は忘れません。