JP Road mirage - Sumomo Toxin / すもも毒素

現在波乱の真っ只中です。そんな中で実際にしたこと、感じたことを書いていきます。これが誰かの助けになればうれしいです。

理屈が通じる場はユートピアではなく、腕力ではなく知力で人を殴ることがある

お題「我が家のここが好き」

子どもがこんなツイートをリツイートしていました。

気になりますね。

 

どちらかというと我が家では理屈が通らない話は拒否される風土ですので、家の中で理屈が通じる! すばらしい! ということだと受け取っておきます。

不安な気持ちは残りますが…

 

ただ、この話は一つの結論に飛びつきすぎですね。

理屈が通じる家=よい

感情に振り回される家=大変

という流れになっていますが、理屈はどんなものにも化けるので、理屈が通じる家が話の通じる家と考えるのは尚早です。

一つの理屈の流れと、それに反する逆の理屈の流れを同じように作り上げることができるからです。

 

ディベートという議論する力を強くするためのトレーニングがあります。

この場では、同じ知的レベルの人間が相反する主張を行い、自分の主張を通すための力を養います。例えば「砂糖は身体に悪い」VS「砂糖は身体によい」という主張で、それぞれが正しいと考えられる理屈を展開し、理論を構築するための力を学ぶのです。

この際に、どちらを正しいと思っているかはどうでもよいのです。間違っていると明らかにわかっていることでも、ある程度の論陣を張るための論理構築能力が必要であり、それを強化するために行うのです。

 

欧米では学校で普通に行われているトレーニングですが、日本では大学でもほとんど行われていません。日本人が自分の主張を通すことができないのは、日本人が謙虚だからではなく、論理構築能力を高める訓練を行っていないからです。

以前にテレビ番組でディベートと称して大学の教授を含めたメンバーで討論を行い、大学教授側が敗けたのを見たことがあります。

その際に大学教授が「俺だってあっちの方が正しいと思ってるんだもん、勝てないよ」と言っていたのですが、この一言でこの大学教授がディベートを全く理解していないのがわかりました。

問題なのは自分の信条ではさらさらなく、その主張を確からしく見せることのできる論理構築能力なのです。この教授が負けたのは、論理構築能力が不十分だったからです。それがわかっていない人間が大学で教えているというところに、日本の学問界のうすら寒さを感じました。

 

このように、理屈は人を殴ることができるものです。

理屈が通ろうと通らなかろうと、その背後に感情はあるわけで、知識量の多いものが知識量の劣るものを抑え込むことができるのは、力の強いものが感情論で自分より力の弱いものを抑え込むのとあまり変わりません。

 

力といっても腕力だけでなく権力というものもあり、仮装大賞がつまらなくなったのは、一部の権力のある人間が自分の好きなように審査員の評価をねじ曲げ続けたためです。

 

腕力でも権力でも知力でも、人を抑え込むのはいっしょであり、「だからこんな家がよい」というのは、その家に住んでいないものが感じている妄想でしょう。

感情の支配している家で幸せに過ごしている家族もあるでしょうし、理屈の通る家でつらい思いをしている家族も存在しうるのです。

 

まあ、すべて頭ごなしに否定するのでなく、こういう話をぶち込んで議論することができる我が家は、かなりオープンなのだと思います。

私以外の家族がどう思っているかはわかりませんが…