今週のお題「雨の日の過ごし方」
雨が降るのは嫌いではありません。出かけなければならない時は多少おっくうにもなりますが、傘をさして歩くのも情緒があっていいものです。
出かけなくてよいときは、家の中から降り続く雨を眺めて物思いに耽ったりするのも、よいものです。
そんな時に、ツイッターで見かけた文章がちょっと引っ掛かりました。
僕が小学生のころから、感想文を書かせると一定の割合で感想ではなく、あらすじを一生懸命書くヤツがいて、今大学で教えていても同じ。感想を書いてと言ってるのにストーリーを説明してくる学生が一定数いる。これって、教える側が「感想」とはなんなのかを学生たちに伝えきれていないってことなのか?
— はぁとふる倍国土 (@keiichisennsei) 2021年5月21日
田中圭一さんというマンガ家の方が、こんなツイートをしていました。
本当にたくさんの人がこの考え方をするのですが、これはおそらく見えていないものがあると思います。
読書感想文というのは、本を読んで、得た印象や思いを表すものだと考えている人が多いと思いますが、それでは片手落ちになります。
読書を行うのは情緒を育てたりするのにも役立ちますが、多くの人はそのために時間を割いたりしないんです。
読書は何のために行うの?
読書は、読む人の年代によって目的が変わってきます。
幼年期から少年期
幼年期から少年期にかけては、純粋に楽しみのために本を読みます。
走り回って触れるすべてのものが新しく、それを知る喜びに満ちている子どもの時期に、じっと座って本を読むなんてのは、拷問以外の何物でもありません。
そんな子どもに本を読むのが楽しいと教えるために、読み聞かせをしたり、推薦図書を与えたりして、読書の楽しさと読み方の訓練をするのがこの時期です。
読み物でなくても、昆虫図鑑や恐竜図鑑、百科事典でもよいのです。
活字を追うことへのアレルギーをなくし、本を読むことが楽しく、有用であることを理解してもらえば大成功です。
青年期
社会が見えてくると、多くの人は自分の考え方が正しいのか、どんな生き方があるのかを知りたくて、「いかに生きるべきか」などと書かれている生き方本や、思想を紹介している本などを選ぶようになるでしょう。
もうすでに本を読む楽しみにはまっている人は、いろいろな本を漁って、どんどん深く沈んでいきます。
社会人
社会に出ると、多くの人は「役に立つ本」を選んで読むようになります。
実務にすぐ役立つ本や、仕事で使うノウハウ本などです。
読書沼にはまっている人は、さらに多くの本を漁り、社員食堂のおたふくソースのラベルまで読んで、活字への飢えを癒したりします。
社会人が業務で本を読むとき
本好きな一部の人を除いて、読書の有用性は、情緒や感動ではなく、その実用性にあります。
人生の中のほとんどの期間において、読書は役に立ってもらうために行います。
業務関係のマニュアルを読んだとき、仕事に必要な技術書を読んだとき、ビジネスに役立つ本を読んだとき、それで得たものをレポートしてほしいと言われることがあります。
このような時に、本を読んだ感想や感銘を受けた内容についてレポートしたら怒られてしまうでしょう。
求められているものは、職場や企業の他のメンバーに内容を伝えるための概要や、記述されている内容で注意すべきポイントを挙げることです。
その本を読んであなたが受けた感銘や感情の動きを伝えるのは無駄なことなのです。
必要なのはあらすじ、書物の内容を客観的に見た内容なのです。
理系脳と文系脳
理系脳と文系脳という考え方があります。
実際の人の脳みそはもう少し入り組んでいるし、理系に進んだ文系脳の人もいれば、文系に進んだ理系脳の人もいます。
正しく分けると、論理的にものを考えるのが得意な人と、情緒的にものを考えるのが得意な人がいるだけです。
論理的にものを考える人は、本を読んだ時に、その本に記述されていない自分の感想や解釈を書くことが正しくないと考えるでしょう。
その本に書かれていることを客観的に第三者に伝えるために書くとすれば、それはあらすじと本のポイントをピックアップして書くしかありません。
これが、いわゆるあらすじ感想文と言われるものです。
大学に行って本の読後レポートを書く場合も、芸術系の大学でない限り、感想は入りません。
本で書かれている事実と、その事実に対する考察と、その考察の根拠を挙げて、自分の主張を書くことになります。
この時に、小学校から中学校までの、情緒的発達を促すために有効な、自分の感想を述べる感想文は、邪魔になってしまいます。
感想文の問題は、評価基準がないこと
読書感想文を多くの子どもが嫌うのは、明確な評価基準がないことです。
ある本を読んだ時に浮かぶ情緒的反応が均一であるはずがありません。
情緒は個々人によって異なり、それこそが個性と呼べるものの一つであるからです。
それなのに、評価は平均的なものに集まります。
それは、評価する側に文学に関する素養も、論理的思考に関する素養も足りないからです。
それなのに、感想文の評価が行われることが問題で、自分の感想を否定された子どもは、自分の意見を述べることや、さらには本を読むことすら嫌いになってしまいます。
「ぼくが本を読んだ感想は間違っていると言われた。だからぼくは普通じゃない。だからぼくには本を読む能力がない。それがばれないように、自分の意見を言うことは止め、本もなるべく読まないようにしよう」
これがきちんとした評価基準のない学習項目を採用している現在の教育が起こしている大問題です。
あらすじを書く子供もやさしく抱きしめてください
読書感想文に感想を書けというのが、現在の教育で意味がないという根拠は上の通りです。
私は読書感想文を書くのが好きな子どもでしたし、ここで悩んだことはありません。
本を読んでも書けないという友だちに、好きなキャラは? どこでドキドキした? ぼくもそこが好きだよ。 それを書けばいいんだよと伝えて書いてもらったこともあります。
単なるおせっかいなのですが、私は私も好きなその本を嫌いになってもらいたくなくて、その子が本当はその本が好きだということを理解してもらいたかったのです。
あらすじ感想文も悪いとは思いません。
その子はスト-リーの流れがよいと思ったから書いたのかもしれないし、本に書かれていることの方が自分の考えることより価値があると思ったからそう書いたのでしょう。
それは否定されることじゃないし、否定するのなら、まず評価基準を明確に出してもらわなければなりません。
それができない教育機関にされた評価など、何ほどの価値があるでしょうか。
みんな違って、みんないいんです。
もし自分の子どもが、あらすじ感想文を書いたら、その子の論理性を重んじ、事実を重視する姿勢を個性としてとらえて、褒めて抱きしめてあげてください。
学校でもらう評価より、ずっと大事なものをその子は受け取ることになるでしょう。