今週のお題「もしもの備え」
ここのところ、「観測開始以来初の」とか「20年に一度の」とか「これまでに経験のない」異常気象や災害が続けざまに発生しています。
「何か大きな力がこの世の終わりをもたらそうとしている、これがその始まり。つまり終わりの始まりだ」などと言う気はさらさらありませんが、これまでの常識では導き出せない事象が起きているのは確かです
これまでの常識では計れない事象
この夏の初めに、ある噂がありました。
気象予報士はこの夏は猛暑になると言い、岩手の農家はこれまでの経験から冷夏になることを危惧しているという噂です。
結果から言うと、皆さんご存知の通り、今年は猛暑になりました。
奥さんの実家が岩手で、いつもなら夏に冷房を入れるのはほとんどないのに、今年はかなり冷房を使ったそうです。
地元の人はこれまで長年続き、伝えられてきた経験に基づいて、冷夏になるという判断をしたのですが、この判断メソッドがもう実際の気象に合わなくなってきているということです。
ヨーロッパでも、フランスやドイツでこれまであり得なかった30℃から40℃という気温が連日観測され、各地で大雨や旱魃、大洪水に飛蝗の大発生など、ここ百年ほどはなかった現象が起きています。
これは超常現象というより、ちょっとした地球の環境の変化により発生する、当たり前の現象なのでしょう。
空気中に二酸化炭素が増えたら。
森林が無制限に伐採されたら。
バタフライ・エフェクトのように、起こっている現象を説明する時に、驚くほど些細なことが原因になって大きな異常が起きています。
それを見つけ出すために必死になって研究している方たちもいると思いますが、ある程度累積した原因現象の方向を正すのは容易なことではありません。
間に合ううちにそれを特定できればよいのですが、日本はそのような研究に対する資金提供をどんどん減らしていっています。
かつては多くの碩学を輩出した日本も、まともに研究を進めている人たちは海外でしか活動できなくなってきています。
ノーベル賞を取った方たちが海外の大学で研究を続けているのを見るたびに暗澹たる思いにとらわれてしまいます。
日本人は何を切り捨てて来てしまったのでしょう。
備えるということ
地球規模の環境の変化で起こり得る災害に対して、備えるというのは蟷螂の斧に近い無力さを感じますが、それでも何もやらないでいるよりは、生の確率を上げていくことができます。
一番怖いのは食べるものがなくなることです。
これに備えるのは今の社会では難しいでしょう。
猛暑の季節に電気が供給できなくなったら。
凍える季節に暖をとる手段がなくなったら。
排泄物を処分できなくなったら。
これらすべてに備えるのは不可能でしょうが、自分なりに何らかの対策を考えることは必要ですし、いずれそれが社会的に役に立つ機会も出てくると思います。
コロナ騒ぎの中。田舎に家を求める人が増えているのは、何かに備えなければならないという強迫観念が人を動かしている証明でもあります。
一過性のブームで終わらなければ、これも一つの大きなムーブメントになって、大災害時代に向けた一つの回答になるかもしれません。
まあ、田舎は田舎で大きな災害のネタをいくつも抱えているので、そのあたりは十分に考慮しなければなりませんが。
寝苦しい夜には、こんなことを考え続けて眠れなくなります。
そういう時には、肩の力を抜いてみるのも大事です。
現世のいろいろな問題を超えて、自分たちの発見した最適解に酔うピアニストたちの動画でも見て、心を安らかに保つのもとてもよいものです。